「小僧の夢」(谷崎潤一郎)

一筋縄ではいかない、谷崎文学の迷宮

「小僧の夢」(谷崎潤一郎)
(潤一郎ラビリンスⅤ)中公文庫

池田屋の小僧で
16歳になる「己」は、
このような境遇にあることを
非常な不幸として感じている。
立身出世の能力のある自分が
選ぶべき職業は
「藝術家」であると
信じているのだ。
「己」はそれを
店のお嬢さんに話すが
一笑に付される…。

何とも不思議な小説です。
(一)(二)と大きく二つに
章立てされているのですが、
それぞれで描かれている内容が
大きく異なるのです。

前半部である(一)では、
小僧が芸術論、というよりも
文芸論をぶち上げます。
まるで傲慢な小僧の口を借りて、
谷崎が思う存分
自然主義文学批判を行っただけのような
展開なのです。

随筆や評論の中で
私見として述べるのではなく、
あくまでも作品中の小僧の戯言として
表しているあたりが何ともいえません。
そういえば森鴎外
「杯」という作品の中で
自然主義批判をしていました。
そうした文学論を、
堂々と展開できなかった
理由があるのか、
節度として明確に表現しなかったのか、
あるいはほかに理由があったのか?
謎に包まれています。

続く後半部(二)は、
小僧が不道徳な行動へと走る様子を
描きます。
特に仕事の時間をごまかして、
浅草の世界館へ足を運び、
ミス・メリーの魔術に現を抜かす
小僧の様子が中心です。
メリー嬢の催眠術は
実はインチキであり、
小僧もサクラになることを
強要されます。
しかし、そのサクラになることに
小僧は快感を覚えるのです。

こちらは谷崎自身による、
自分は悪人であることの
カミングアウトともとれる内容です。
芸術への欲求が満たされないとき、
自分は不道徳に走るという
谷崎の道徳的サガ、
そして魅力ある女性に屈したいという
谷崎の性的サガが
前面に押し出されているのです。
たしか「異端者の悲しみ」にも
そうした告白が見られたかと
記憶しています。

巻末の解説を読むと、
1981年刊行の谷崎潤一郎全集には
収録されていなかった
(現行の2015年刊行版には
収録されている)作品とのこと。
確かに代表作とはなり得ないような
趣の作品ではあります。

作品そのものを味わう、ということには
適していないのかもしれません。
あくまでも本作品は、
谷崎の人間性に触れるということの
ために存在するのだと思います。
この「潤一郎ラビリンス」全16巻、
まさに一筋縄ではいかない、
谷崎文学の迷宮です。

(2020.2.3)

Free-PhotosによるPixabayからの画像

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